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zoom RSS エレキの巨星逝く

<<   作成日時 : 2018/03/27 07:26   >>

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先日ベンチャーズの元メンバーでもあったギタリストのノーキーエドワーズが亡くなられた。
この訃報に日本でも多くのファン(特に団塊の世代のベンチャーズファンなどは)が悲しんだことであろう。

これは当時知りあったT氏の六本木のお店でのノーキーライブの時の写真。ノーキー氏と30周年記念モデルを手にしてご満悦の私。
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ノーキー氏はベンチャーズ曲の演奏はもちろんだが、個人の演奏時にはサムピックを使用してのスリーフィンガースタイルでのカントリー曲もよく聴かせてくれた。

こちらもノーキー氏の写真にサインを戴いた。
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直接にお会いできた中で(当時はまだ60歳くらいであったか)、ノーキー氏にはインディアンの血も入っていて、また日本人でいうと職人気質のような頑固な一面も垣間見たような気がした。この時には奥さんのジュディさんも一緒で気さくな方であった印象がある。


ノーキー氏の30周年記念モデルが完成してT氏とノーキー氏がその1号機と2号機を見せにガンで患い入院していたモズレー氏(元祖モズライトベンチャーズモデルの製作者)の元に会いに行った時の写真(ギター雑誌より)。
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当時はノーキーやそしてモズライトギターにと一番に熱の入っていた頃でもあり、その記念モデルが作られる事もいち早く知っていた中で、T氏に一番に頼んだ末に3号機を手に入れたものだった。
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少年時代にエレキブームで過ごした団塊の世代が中年となった1980年代から90年代は、その団塊の世代の中でもベンチャーズファンでモズライトギターに憧れて続けてきた人達の一部は、子育ても終わってまたすこし余裕もできてきた中で、少年時代に果たせなかったモズライトを手にしてベンチャーズや寺内タケシのコピーバンドを結成して演奏するようになった。そのような事で私などもそのひとりであったような気がする。

証明書にはノーキーとセミーモズレーのサインが。私の3号機の完成時の検査では弟のアンディーが行っていた。
この証明書に記載されている日付の一週間後にはモズレー氏は逝去された。
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セミーモズレーはモズライト社の創業者でありまた有能なギター職人であった。そしてギター片手に唄うゴスペル歌手の一面もあった。
1960年代の初め、すでに米国内では人気を博していたベンチャーズのメンバーとなっていたノーキー氏は、モズレー氏と出会った中でベンチャーズモデルを作る事になった。

モズレー氏が亡くなる数年前のT氏のお店でのモズレー氏とノーキー氏のツーショット写真。
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63年から64年65年とベンチャーズモデルが世に出て大人気となった。そのベンチャーズモデルをひっさげて1966年来日してベンチャーズが演奏した。日本でもすでに大人気であったベンチャーズ、そしてそのモデルギターという事で日本国内でもモズライトギターブームが沸き起こった。しかしそのギターは非常に高価(1ドル360円の時代でもあり大卒の給料の一年分)であり、また一本一本が全て手作りであり年間の生産本数が限られていて、ましてや日本に輸入されてくるのはごく僅かであった。
当時はギターのロールスロイスともいわれるようになり、プロのギタリストでさえ中々このギターを手にいれる事ができなかった。ましてや一般の人には実物を見る機会さえもあまりなく、手に入れる事などは夢のまた夢の世界であった。
エレキブーム到来のさなか、寺内タケシや加山雄三がモズライトギターで演奏するようになるとモズライトギター熱は尚更に激しくなっていった。ブームが去ってからも本数的にも少なかった1963年から65年までのモデルは一部のコレクターなども影響してか、ギブソンやフェンダーのビンテージ物と同じように売買価格が上昇して50万から高い物は200万円もするようになっていった。それでも子供の時からの夢が叶うとなれば家族に内緒にしてでもなんとかしたくなるのが人情である。

私が10歳の時、難病を患い長い闘病生活をおくっていた時、一番の楽しみが、トランジスタラジオから流れてくる音楽であった。当時一番のお気に入りは弘田三枝子の「子供じゃないの」や「すてきな16才」そして「バケイション」などであった。当時は中尾ミエや飯田久彦などが米国のヒット曲をカバーして歌い、よくラジオからも流れていた。
長い病院生活がきっかけで小学生ながらアメリカンポップス音楽が好きになっていったのだが、まだその頃ではエレキの存在は知らなかった。

私が中学生になった頃には、すでにエレキブームが身近な所でも始まりだしていて、近所の高校生達がバンドを組んでいてその練習場所になっている小屋をよく覗きにいったりもした。またエレキ演奏が聴きたくて仲間と姉の通っている高校の文化祭にも足を運んだりした。当時はグループサウンズのブームも始まっていて、その文化祭でも高校生バンドがよくコピー演奏をしていた。
大きな二段済みのギターアンプをバックに従えて大音量で演奏する、その姿や音に全身がエレキ(電気)だけにシビレたものだった。
そのエレキの音とカッコよさに憧れていたが、田舎の小さな町の中学生にはエレキギターを手に入れる事は夢で、またエレキイコール不良というレッテルも貼られていて、高校によってはエレキ禁止令なるものも存在したような時期でもあった。一度クラスの仲間がどこからかエレキギターを借りてきたものを、私が自転車の荷台に積んで先生にかくれて学校の教室へ持っていったら、ただ持っているだけでエレキ、エレキとクラスじゅうが騒ぎになったものだった。
初めて自分のエレキギターを手にしたのは高校生になってからで、アルバイトで貯めたお金を持ってヤマハの楽器店でSA15という当時のヤマハのエレキではランク的にはかなり下のギターであった。本当はその上のSGクラスが欲しかったのだがすこしくらいのバイトではとても買える品ではなかった。アンプはその後にグヤトーンの小さめの8Wを手に入れたりした。それでも2万円を越える価格であったと記憶している。

高校の二年目だったか、クラスメイトや他のクラスの連中とベンチャーズバンドを結成した中で、私はベース担当となったがギターしか持っていない為急きょ高校の隣市の質屋で流れた中古のエレキベースを購入したりした。
練習場所はギター担当のメンバーが近くの湖の湖畔にある電気も使える小屋を見つけてきて、そこでよく練習したものだった。ギター担当の友人は家の軽乗用車を持ってきて(当時は16歳で軽の免許は取得できた)運転もできたので機材の運搬面では重宝したものだった。
しばらくして三年生を卒業前に送る会(当時は予餞会といった)が体育館である中で、私達のバンドも参加する事になった。また練習場所に苦労している事を知った担任の先生からは、視聴覚教室を放課後なら使用しても良いとの配慮があってお陰で心おきなく練習もできた。

しかし、その頃の国内の音楽事情(60年代後半)はビートルズやローリングストーンズやフォークソングの時代となっていて、あれほどの人気だったベンチャーズはすでに下火となっていた。
また予餞会当日は対バンがローリングストーンズのコピーバンドであり、彼らの唄と演奏ではものすごい人気で歓声もあがったりしていた。その後の私達のバンド演奏は押して知るべしで、加えて途中からはリードGのアンプが壊れて音が出なくなったりして、ひっこめコールも出る始末となり散々な演奏となってしまった。

芦原すなお氏原作の映画「青春デンデケデケデケ」の後半の主人公や仲間達のバンド「ロッキング・ホースメン」が大盛り上がりの中で演奏するシーンとはえらい違いであった。
それでも遅ればせながらエレキを手に入れバンドも組めて演奏できた事は良き青春の思い出になっていた。

あのベンチャーズにはプロアマを問わず多くの人が影響を受けまた良き思い出になっている事であろうと
改めて思った。

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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
エレキ・・私(S26年生まれ)たちの青春でしたね(笑)。
マナオさんの文面を見て私とまるっきり同じ青春時代を生きてきたんですね〜と感心してます(笑)。

私はベンチャーズは勿論ですが、寺内タケシの奏法に魅了された人間です。
特に「運命」と言う曲を聴いたときに指版を縦横に飛ぶように動く指の動きに魅了され高校の時に知り合いから500円位のエレキを譲ってもらいバンドを作り物まねをしていたものです(最初のじゃじゃじゃじゃ〜んだけ(笑))結局引けずじまいで青春を終わってしまいました・・・それから50年・・・年金生活を機にモズライト(フィルモア製)を購入し真剣に引けるようになる!と決意を新たにやっています。さてどうなるやら・・・(笑)。
心臓
2018/03/27 23:37
心臓さん、おはようございます。
このウエブリブログ内ではエレキ関係の記事も少ない中でこのように訪問していただいたり、またコメントをいただけるのは有難く、また嬉しくもなってきます。
心臓さんは寺内タケシのファンでもあるという事ですが、以前のブログで拝見した所有の黒のモズライトからもそれがうかがえました。
寺内タケシとBJのコンサートは大分前になりましたが、県内の行川アイランドの星空コンサートや茨城の県南県北のふるさと祭り等にはよく聴きにいった事がありました。
心臓さんも黒モズ片手に是非頑張っていただきたいと思います。
マナオ
2018/03/28 08:18

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